HOME > 佃煮の歴史
江戸時代初期、大阪の佃村の漁民達が自家用の惣菜として作っていた小魚煮が起源のようです。
徳川家康が「本能寺の変」の直後に岡崎城まで逃げ延びる際に、大阪佃村の庄屋や漁師たちが船と小魚煮を道中食として提供してくれたことに対する恩恵として、江戸でも特別の漁業権を与えたことが始まりと言われています。
家康は名主・森孫右衛門に摂津国の佃村(現在の大阪市西淀川区佃島)の腕の立つ漁師を江戸に
呼び寄せるよう言い、隅田川河口・石川島南側の干潟を埋め立てて住まわせたのだそうです。
彼らは江戸の隅田川河口(現在の東京都中央区佃島)に移住しました。そして、東京湾(江戸前)で
獲れた新鮮な小魚やアサリを、大消費地である江戸の町中に持っていくために醤油と砂糖で甘辛く
煮て保存しやすくしたのです。
佃島にたくさん加工場があったことから「佃島煮」、それが「佃煮」といわれるようになりました。
「佃煮」は町中に広まり多く売り出すようになりました。そして保存性の高さと価格の安さから江戸 庶民に普及し、さらには参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰ったため全国に 広まったとされています。
明治10年の西南戦争の時には、政府軍から軍用食として多量の「佃煮」製造が命じられ、明治
27年の日清戦争でも、多量の「佃煮」製造が命じられて、大量生産が行われるようになりました。
戦後、帰宅した兵士は戦場で食べた「佃煮」になじんでおり、これが一般家庭の副食となり日常食と
なったのだそうです。
以来、各地のお土産物には、その土地の豊富な材料を使用して作った「佃煮」が定番となりました。
東宝食品では、この伝統を受け継ぐと共に時代に合った食品としてのチャレンジも行っています。
安政2年(1855)の地図に記された佃島(○印)
隅田川の河口の永代橋(江東区・中央区)から佃島(中央区)のあたりで最も盛んに白魚漁が行われ、ここで捕れた白魚は幕府に上納された。『図説江戸〈7〉江戸の仕事づくし』 竹内 誠/監修
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